佐用川べりに土蔵や川屋敷の家並みが残る佐用町平福。

平福は作州街道(因幡街道)の宿場町として発展し、本陣・脇本陣のほか幕末には181軒、79業種もの店が並ぶ繁盛ぶりで、各家々は屋号が残されている。明治大正期には生活物資や農産物が集まる市場町としても賑わい、なまこ壁や格子戸のある商家が旧街道沿いに今も軒を連ねます。

 

利神城跡

利神城は南北朝時代、別所敦範によって利神山に山城が築かれ、関ヶ原の戦いのあと姫路藩家老池田出羽守由之が領主となり、利神城の築城と城下町の整備が行われます。
しかし、利神城は完成後間もなく藩主池田輝政の命で天守閣が取り壊され、輝政の6男池田輝興が2万5000で入り平福藩を立藩しますが、しばらくして赤穂藩へ転封となり平福藩は廃藩になります。
現在は石組が崩れた場所もあり、登ることはできないが山頂にそびえる姿は往時を偲ばせる。別名、雲突城とも呼ばれ朝霧の上に突き出した城跡は名前の由来を見せます。

 

川端風景

通りに面した商家の裏手、佐用川沿いに並ぶ蔵屋敷群は「川座敷」とよばれる”離れ”で、佐用川を渡る涼風と利神山の眺めを楽しむために建てられたもの。往時の繁栄ぶりと風流な文化が感じられます。平福は昭和57年に佐用町の街並み保存地区に指定され整備も進んでいます。
佐用川に映る蔵屋敷群はお盆と年末にはライトアップされ、時を超えた景色を見せてくれます。

 

宮本武蔵初決闘の地

剣豪、宮本武蔵が初めて決闘したと伝えられている。時は慶長元年、佐用町の因幡街道沿いに栄えた宿場町平福の金倉橋のたもとで、剣豪武蔵は、13歳のとき新当流の達人有馬喜兵衛に初めての勝負を挑み一刀のもとに倒したといわれています。 佐用川沿の石垣に並ぶ川座敷、土蔵群による川端風景の近くに五輪書序文の一節の碑があります